前章では、パワハラを行った社員やコピー商品を売っていた複数の企業との訴訟などで、心も体も疲れ果てておりましたが
本来、やりたかった香港での法人を作る所は、変わらず進めておりました。
2011年4月8日
昨年から下見を続けていた私は、香港に別会社を立ち上げました。
ARTLAB. INTERNATIONAL CO.,LTD.
関連会社とか子会社として考えなかったのは、もし赤字が続いて本体の経営に支障をきたすようなことになれば大変なことになると思ったからです。
自分が出資できる範囲内であれば、損をしても自分の懐が痛むだけだからです。
5年間は頑張らなければ、期待するような結果は得られないだろうと最初から決めて立ち上げました。
海外での拠点として、香港での起業
構想としては、フリーポートであり中国本土にも近く輸出入の拠点としてのメリットを活かしたいということ。
実際に海外展示会に出展したときにも海外のお客さまはFOB.OSAKAよりもFOB.HONGKONGを望まれていました。
また、最終加工は日本国内の委託先工場でお願いしていましたが、中国からの資材が多い商品は、香港にすべてを集結すれば自前で検品もでき、最終加工までして、日本へ送り出すことが可能となる点。
即ち、営業・宣伝拠点としての役割と資材管理・製造拠点としての役割を併せ持たすという目的でした。
早速私は、求人募集をかけ製造・生産管理担当、経理事務担当、仕入れ交渉および展示会での接客営業ができる担当、デザイナーなど、私を含めて5名でのスタートでした。 全員がネイティブでした。
その後、事務所内に加工所を作り、パートタイマーを雇って日本の商品の加工を請け負う仕事を始めます。
スタッフは14,5名にも膨らんでゆきました。
日本の常識が通用しない事への驚きと苦悩
生産管理の社員と経理事務の社員は日本語も話せたので、なんとか基本的な意思の疎通は図れてはいたのですが、日本の常識がすべて通用するわけではありません。
度々壁にぶつかり思うように仕事を進められないことに腹立たしさを隠せない日々も長く続きました。
その私の一番大きな頭痛の種は、パートタイマーさんたち(基本的に皆さん家庭の主婦)のおしゃべりです。
最初は皆さんお互いに初対面なので、言葉数も少なかったのですが、慣れてくるにつれて大きな声でおしゃべりを始めます。
必ず最初にしゃべりだす人は決まっていて、その人がしゃべりだすと、まるでそれが合図になっていたかのように皆しゃべりだすのです。まるで機関銃で乱射攻撃を受けているような状況でした。
もちろん、私も「いい加減にしろ!」と大きな声を出して怒るのですが、一日たてば、また何事もなかったようにして始まります。
パートの皆さんは広東語しかしゃべれませんので、私が日本語で怒っても、怒っているなという事実しか伝わりません。
怒ったり、笑ったりはニュアンスである程度伝わりはしますが、何に対して怒っているのかは具体的に通訳してもらわなければ何もその理由は伝わらないというのが現実でした。
職場環境の改善、社員に好きになってもらえる会社作り
そこで私は、加工作業には1時間集中したら5分休憩とか1時間半集中したら10分休憩とかを提案しました。
その休憩中に思いっきりしゃべって良し!というルールを作ったのです。
3時にはおやつタイムも作りました。
また、お誕生日の人がいたら、必ずケーキを買ってみんなで食べます。
私からは200香港ドルの現金もプレゼントすることを始めました。
実はこのお誕生日のプレゼントは、日本で人が増え始めたころから私がずっと10年以上続けてきた儀式のようなものでしたが、あることがきっかけで続けることをやめてしまったという経緯があったのです。
それは、私がうっかりして一人だけ誕生日を忘れてその結果、その人だけ抜けてしまったことがきっかけでした。
もう何の言い訳もむなしいだけでしたので、それをきっかけで消滅させたというのが本当のところです。
香港でもそのリスクはありましたが、会社のことをまずは現地のみなさんにも好きになってもらわなければいけないと思ってやりだしたことでした。
人のこと以外でもう一つ困ったのは、新しい種類の生産の際にはフレグランスオイルを毎回日本やフランスから輸入しなくてはならないことでした。
香港で入手可能な香料のクオリティアップ
香料を扱う職業としてはごく当たり前なのですが、香料の中には輸出入で危険品とされるものも多く、そのたびに面倒な手続きや梱包基準の順守が求められたり、また輸送費の上昇でコストが高くなったりという問題が生じていました。
そこで私は、2010年の香港出張の時からコンタクトを取っていた香港に事務所のある香料会社との商談の頻度をあげて、中国からでも弊社の求めるレベルのフレグランスを仕入れられるように奮闘しました。
それ以前に商談した2,3社は、全く弊社にとっては満足のいくサンプルは得られなかったので、この一社に絞ったのですが、何度もサンプルのやり直しを依頼し何度もダメ出しをしたにもかかわらず、その会社の担当である彼だけは1年もの長い間売り上げがゼロでも文句も言わず付き合ってくれました。
ここで香料のことに関して一つ説明しておきたいのですが、現在の香料業界ではその原料レベルでは世界中で売り買いが行われているため、あまり国によっての地域差のようなものはなくなってきています。
IFRA(インターナショナルフレグランスアソシエーションの略)という香料の国際機構によって規定された安全性と品質基準を満たした香料しか流通していないのです。
香料の良し悪しの問題は国柄や地域や原料だけにあるのではなく、その調合技術やそのセンスにあるといっても過言ではないのです。
最初のころはインドや中国などの香料会社では、香辛料の香りや漢方薬っぽい香りが多く、どこから手を付けたらいいのか困ったことも多かったのですが、その理由としては、インドはインドの、中国は中国の市場自体がそれらの香りを求めている証なので、もともと仕方のないことなのです。
しかし、そんな中でも彼は私が求めていることを最初からよく理解してくれていました。
そして日本の需要が今後伸びてくることにもおそらくそのころから気づいてくれていたんだと思います。
一年ごとに欧州とアメリカとで交互に主催地もかわるフレグランスの国際フォーラムには彼は毎回参加していて、世界のトレンドをしっかり勉強しています。
今ではロンドンの有名なパフューム会社への供給元にもなっているほどです。
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Carafe Diffuser
(苦しい香港時代に創作したラグジュアリーアイテムの一つ)
その結果、今では弊社にとって一番といってもいいほどのビジネスパートナー企業として現在もお付き合いを続けています。
最初にお会いしてから12年ほど経ちましたが、彼はいまや実質社長として大きく会社を伸ばしています。
こうして香港に情熱を注ぎこむことになった私は香港住民としてアパートを借り、次第に日本との距離ができ始めます。
日本に残された社員たちや家族に対しても、私の香港でのチャレンジの熱量は正確には伝わらず、また独り舞台となり、次第に日本(本社)からの加工の依頼も減ってゆくことになりました。
スタート当時の為替では1香港ドルは10円ほどでしたが、2013、2014年となるにつけ14円以上となってしまい香港での経営は行き詰ってきました。
家賃も従業員の給与も日本円を両替して香港ドルで支払っていたので、毎月の経費が単純に1.4倍以上に膨れ上がってしまったのです。
社員の給与もこれぐらいだともう一人雇えるかなと思っていた私には大きな打撃でした。
為替変動の怖さを思い知らされた時期でした。
しかしながら、その香料会社とは香港の会社だけでなく日本とも直接の取引を始めることにしました。
その結果、日本の仕入れコストはずいぶん下がり以降の日本の利益に大きく貢献できたのです。