さて、第四章の最期にお話しました茅ヶ崎海岸の石拾いから 「快石シリーズ」というモノは出来ましたが、売り先もなにもない状態でしたので、ひたすら行商を続けるしかありません。数えきれないほどのショップに「飛び込み営業」をしましたが、どこも即お断りの返事。
やがて、肉体的にも精神的にも追い込まれてゆきます。
インテリアショップの店主から吉報
もう誰も分かってくれないし、自分の思い込みだけで走ってきたものの、商売を替えるしかないのかな…と思っていた時に、あるインテリアショップの店主から吉報が飛び込んできます。
「注文したいのですが、お越しいただけますか?」
私は、取るものも取り敢えず即行で訪問しました。すると、「お客様から受注が来たので、納期を教えてもらいたい」ということでした。私は、もちろん「ありがとうございます」と胸の高まりを抑えながら、「おいくつでしょうか?」と尋ねました。すると先方は「200セットをお願いします」と、言われました。
心の中で思わずそう復唱してしまいました。その箸置きは5個組のセットになっていたので、合計 1,000個ということになります。喜びもつかの間、私はその納期をどう返事していいのか…。頭の中では、石拾いの所要時間の計算や、その浜まで行くまでのガソリン代の捻出方法、山梨県の南巨摩郡(雨畑硯という硯石で有名な場所)での彫刻作業など、複雑な思いのまま「明日にお返事させてください」とだけ言い残し、その場を去りました。
結婚とアート・ラボと塩むすび。
話は少し遡りますが、私は、商社を辞めてから雑貨の輸入会社で働いていた時に妻となる女性と出会いました。
同じ雑貨業界で働いていたこともあって価値観を共有できるところもよかったため結婚へと進んでいったのだと思っていますが、脱サラしてこれから何の保証もない起業という道に進もうとしている男のことを世間の父親は娘の結婚相手として認めるだろうか? そんなことを考えながらその先の広告代理店に社員として入ったのです。それは彼女の父親に反対されないようにするための、ずるいやり口でした。
勿論、仕事は昼夜を問わずに一生懸命働きました。
そして、先方のご両親にも認めていただいて結婚できたのですが、それからしばらくして退職してしまいました。
広告代理店と言っても小さな会社でしたので、社長はデザイナー兼任でした。
どちらかと言えば数字を追う経営者ではなく感性で仕事をされてきた方でしたので、私が辞める時にはたいそう深酒されていましたし、やがて経営も厳しくなられてしまいました。
そこまでしても、やはり自分で会社を立ち上げたい、自分のビジョンに叶う仕事を自分で見つけてやっていきたいと思いは強く、結婚しても変わりませんでした。そして長男が生まれた年にアート・ラボ(ART LAB.)を立ち上げたのです。
今回の受注の為に、この石拾いにも妻と生まれたての長男と私の3人で出かけていました。もちろん初めての売り上げでもあり、初めてこの仕事に希望が持てた瞬間でした。それは今でも鮮明に記憶に残っています。
車は先輩から鈴鹿サーキットで単車を積んで輸送していた改造車を只で譲り受けた中古のワゴン車です。当時すでに14万キロ以上走っていたようでした。後部座席はなく、厚い鉄板の仕様で後部の両側面の窓はありません。
運転席はベンチシートで、その中央にようやく首が座ったほどの幼児の長男を固定させて走ります。山道も走るためダートコースが多く揺れも激しく尾骶骨がしびれてきます。お弁当は妻の母親の実家から送られてくるお米で作った塩むすび。 具材はなくても、とても美味しかったです。
200 セットは結婚式の引き出物に使われるということでした。当時は派手婚の真っ盛りで 100 人、200 人の招待客は芸能人でなくとも普通にあった時代だったので不思議なことではありませんでした。
- 快石シリーズ:右は SP セット<ソルト&ペッパー:塩と胡椒の容器セット
- この玄昌石プレートも最近特にイタリアンレストランでの使用がポピュラーになってきたことには自分でもびっくりしています。
友人にも助けてもらって何とか納品を果たすことができたことで、そこからは、企画をもう少し肉付けして、玄昌石のプレートを食器というカテゴリーに使うことを考案し、和の懐石盆という使い方のみならず、イタリアンのプレートとしても広げるべくデザインを増やしてゆくことになりました。
ですが、まだまだ問題は山の様にあったのです。